はい、はじまりました
HEISEI NO OWARI project
今回は平成三年(1991年)です。
この年は何といってもバブル崩壊が日本では一番のニュースですね。
バブルがはじけて、みなさんがイメージする「失われた10年」と呼ばれる時代に、
「平成生まれは成長している時代を知らないから、ガッツがない。」
「モノを買わない」
なんて言われますが「成長している時代」の方が異常なんです。
戦後の焼け野原からスタートするわけですからそりゃあ経済発展はします。
でも復興需要というものは復興したら終わりです。
世界的に見ても1972年のアメリカのニクソン大統領の時代に頭打ちになりました。
日本はそれから後も「より豊かに」「より豊かに」とGDPを上げよう。貿易黒字を増やそうと躍起になってきたわけですが、バブルが弾けて化けの皮が剥がれました。
GDPをとにかく上げたければ、それまで無償労働だったことを有料化すればGDPは増えます。
例えば家事を家事代行サービスに任せて、その浮いた時間を働けばGDPは増えます。でもそれで本当の意味で豊かになれるのでしょうか?
貿易黒字についても、確かに赤字よりは黒字の方がいいです。必要以上に黒字をため込むというのは個人で例えると、ひたすら稼いでお金を貯めこむケチな金持ちみたいな状態です。お金はあるけど豊かな暮らしとは言えませんよね。
国家レベルで見てもお金が増えてもモノが増えないのでモノの値段が上がるだけで豊かさは実感できないのです。この状態の日本が戦後の高度経済成長をもう一回やってさらに外貨をかき集めようものなら今度は世界中から非難がごうごうと巻き起こるでしょう。
平成という時代はとにかくどの政権も一貫して血眼になって経済成長、経済成長と言ってきたわけですが、経済成長より大事なものがあることにいい加減気づいていただきたいものです。経済成長(パイを大きくする)よりも、今あるパイを公平に分ける事に頭を使うべきだし、実感がないと大多数の人間は全くやる気が出ません。
国際情勢を見ると平成三年は湾岸戦争が起きた年でもあります。
直接的にはイラクと多国籍軍の戦争なんですが、平成最後企画なんでしっかり解説してみます。
原因
原因をさかのぼると湾岸戦争の前のイラン・イラク戦争(1980~1988)までさかのぼります。このイラン・イラク戦争、事の起こりはイランが親米的な政権を打倒して革命を起こします。(イラン革命)
このイラン革命
もともとイランはソ連のすぐ南に位置することもあり、アメリカの援助を受けてイスラム色を薄くして欧米色を強くしようと「白色革命」を行うものの強引な手法に保守派や宗教学者が反発、大混乱をもたらした。
識字率の向上政策は文盲率を95%から50%に減らすことに成功するものの
国土の緑化を進めて荒れ地を農地にするために国民に土地を配るが、国民の多くが灌漑するための資金力を持たなかったために農地を手放して都市になだれ込んでスラムを形成。
富裕層の子弟に海外留学を勧めたが、その一部は留学先で反王制派になった
女性に選挙権、被選挙権を認め、ヒジャブ(イスラム教の女性がかぶる黒い布)の着用を禁止して一夫一妻制にしたことが宗教学者の非難を浴びたり。
結局は混乱の中でイラン国民は保守派の方を支持して親米派を追い出した。(イラン革命)
このイラン革命後のイランは、アメリカ寄りの政権を追い出した後にソ連側にもつかない中立路線、伝統的なイスラム教を厳格に守る政治体制(イスラム共和制)を敷いたために、周りのアラブ諸国とも波長が合わない。さらにアメリカも親米派が追い出されたのでおもしろくない。
緊張が高まる中でイラクがイランを攻める。当初はアメリカ、ソ連、フランスといった主要国の支援を受けたイラクが快進撃を見せるも、イラン側にはイスラエル、シリア、北朝鮮といった反米国が付いた。
81年にイスラエル空軍がイラクの原発(動いてはいなかった)を攻撃
82年にはシリアからイラクへのパイプラインが止められる。
このあたりからイランは形勢を立て直していく
その後も戦争はずるずると続き、平成元年(1989年)6月イランの指導者ホメイニが死去翌年平成二年にイランとイラクは国交を回復した。
実はこの時、イラクはクウェートを攻めており湾岸戦争が平成三年1月17日に勃発。
なぜイラクが矢継ぎ早に戦争したかというと、
「イラン・イラク戦争で(お金)外貨がなくなった」というのが大きい
外貨がなくてアメリカから食料が輸入できない。
イラクは外貨を獲得するには石油を売るしかない。
石油に限らずモノの値段は需要と供給で決まる。
「もっと石油の値段を上げよう、みんなあんまり石油を掘らないでくれ」
と頼むも拒否される。
それどころかクウェートとサウジアラビアとアラブ首長国連邦はOPECで決めた割当量(掘っていい石油の量)を無視した大量採掘を行い原油価格は値崩れ、イラク経済に打撃を与えていた。
イラクにしてみれば クウェートの存在は目障りだ。1990年8月2日にイラクがクウェートに奇襲を開始。
同日中に国連の安全保障理事会では
安保理決議660を採択(イラクよクウェートから軍を撤退させろ)
さらに8月6日には
安保理決議661を採択(国連加盟国よ、イラクから石油を買うな)
イラクと石油の過剰採掘問題でもめていたサウジアラビアが異教徒のアメリカ軍駐留を認め、周辺の産油国もこれに同調。アメリカは多国籍軍を編成してこれにイギリス・フランスが加わり、アラブ諸国もアラブ合同軍を結成してこれに参加。サウジアラビアに配置されて守備に就いた。(砂漠の盾作戦)
翌年平成三年(1991)の1月17日に多国籍軍がイラク領内を直接爆撃する作戦を開始。(砂漠の嵐作戦)、
2月24日には地上戦(砂漠の剣作戦)が行われ2月28日に戦闘が終了。
4月6日に「クウェートへの賠償」、「生物化学兵器の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを条件とする安保理決議687にイラクが合意して戦争が終結。
しかし、湾岸戦争は終わったものの
和睦の条件であるはずの「大量破壊兵器をイラクは破棄していない」として、9.11を発端に始まったイラク戦争(2003~2010)はアメリカがイラクを占領するものの秩序を回復できず、また開戦の大義名分の「イラクが持っている大量破壊兵器」もいくら探しても出てこない。おまけにフセインを処刑したのでイラク国内の秩序はめちゃくちゃになり、混乱のスキを突くように「イスラム国」が出現。
現在(平成31年)は掃討作戦のおかげでイスラム国の組織としての活動はなくなったものの、テロリストは世界各国に散らばっただけでテロとの戦いは終わっていません。